仲野整体本院四日市

治療理念
【シリーズ特集】全国療術師協会の歴史と現在 第11回
全療協三重県本部
〜仲野弥和先生に聞く!D.C.としての療術の未来をどう展望づるか?〜

全療協三重県本部の会長である仲野弥和先生は、全国療術師協会における数少ないD.C.の一人であり、また柔道整復師・鍼灸師・均整師の資格、さらに医学博士号も持たれているという希有な存在です。
今回は、その仲野先生に、療術の法制化問題から、医療全体のあり方について幅広くお伺いしてきました。

[改革]
昭和22年12月、全国療術協同組合本部(現在の全国療術師協会)からの要請で、前会長・仲野弥太郎氏によって設立。同31年には、法改正にともない厚生大臣指定の療術師救済特別講習を主催。現会長は仲野弥和氏。

東京農大から一転して療術の道へ

本誌
お父様の仲野弥太郎先生がこの全療協三重県本部の会長に就任された経緯からお聞かせください。

仲野
私の祖父が戦前からの療術家で、その時代から全療協一全国療術師協会(当時は全国療術協同組合)の会員でしたが、戦後、全療協結成の呼びかけがあったときに、「まだ若いけれども、これから先、社会運動しなければいけないから」ということで父・弥太郎が会長に選ばれました。

それで、昭和33年に厚生省の指導によるあん摩師の講習があったんです。療術というものをなくそうという意図だったわけですが、三重県でも98名が受けたんですね。その時にやはり父が陣頭指揮に立ち、全員を受けさせて99%ぐらいは通ったと聞いています。むしろ通り過ぎて問題になったそうです。当然合格証書を貰いましたが、ほとんどの方は免許取得の申請をしなかったんです。

本誌
療術に誇りを持っていたわけですね。

仲野
そうです。療術は、あん摩、指圧ではないんだということです。

本誌
お父様もカイロプラクテイツク(以下、カイロ)をやられていたんですか。

仲野
父はカイロというか・・・オステオパシーを一所懸命勉強していましたね。

本誌
資料によると、中部オステオパシー協会会長というお立場にも就かれていたようですね。

仲野
そのときは中部地区で、200人ぐらい引っ張っていました。鍼灸師や柔道整復師が会員にいて、その方たち向けの勉強会を月に2度ほどLていたわけですが、その時の講師が古賀正秀先生なんです。
私は東京農業大学を卒業してから、古賀先生のところで2〜3年ぐらい勉強していたんです。
一番最初に勉強したのは古賀先生の手技で、私の治療の原点になっているかもしれませんね。 (古賀先生の)手も優しい手をしてるんです。
最初の出会いが古賀先生だったというのは良かっ たと思います。

本誌
東京農大に入られたときは、治療家になるつもりはなかったわけですか。

仲野
次男坊ですから、父を継ぐつもりはまったくなかったんですが、兄が家を継がないということになったので、父から「おまえ、やらな いか」と言われて、それで半年ぐらい悩んだんですが、結局、鍼灸と柔整を学ぶことになりました。

本誌
先生はD.C.でいらっしゃいますが、力イロとの出会いもその頃のことですか。

仲野
そうですね。須藤清次D.C.のところに見学に行ったときに、「やってみようかな」という気持ちになって、東京カイロ学院に通いだして、それから、東京身体均整学院(現·東都リハビリテーシヨン学院)にも通っていたわけで す。

本誌
すごい勉強をされてたんですね。

仲野
父のおかげでいい治療家に出会えましたね。その二人が松本茂先生(元・全療協理事長)であり、野口晴哉先生(整体協会創設者)であり、亀井進先生(身体均整法創始者)であるわ けです。 有名な治療家には共通点があるんです。それはむちゃくちゃに泥臭って、むちゃくちゃ個性豊かということです。患者に対する一つの信念があって、自分の世界を作り上げてるんです ね。

アメリカでD.C.取得

本誌
先生は松本徳太郎先生(現·全療協理事長)と同じ、ロサンゼルス·カイロ大学に通ってD.C.を取得されてますね。

仲野
父は松本徳太郎先生のお父様である松本茂先生をよく知っていて、その関係もあって、私がアメリカに勉強にいったときも、松本徳太郎先生の住んでいた部屋に人れ替わりで住んでるんです。松本先生の卒業と私の入学がちようど入れ替わりだったんですね。 そういった経緯もあるので、本来は私も東京に通って、全療協の現·理事長である松本先生をサポートしなければならない立場であることはよく分かっているんですが・・・。

本誌
現在、全療協の中D.C.の方は何人いらっしやいますか?

仲野
私と、北海道の吉橋昌厚先生と、松本徳太郎先生だと思います。

卒業式

本誌
全療協があはき(あん摩・鍼・灸)団体の"手技療法師法案"に関して、その案の受け入れも視野に人れた検討を進めているわけですが、日本のD.C,のほと人どは、カイロ単行法で世界水準のカイロを目指したいと考えているようです。そのあたり、先生のお考えはいかがですか。

仲野
極めて難しい問題ですね。どのような形に進んだとしても、やはり何らかの問題が出てくると思います。それは、アメリカのようになるのがー番いいですよ。しかし、現状を考える と、やはりある程度の妥協はやむをえないという気はします。 去年の暮れ頃にアメリカのジヤーナルを読ん でいたら、カイロは代替医療ではないという記事があったんです。アメリカのカイロプラクテイツ ク協会が、「医療がだめだからカイロがいいと いうレベルではなく、どちらもアイデンテイテイを持っている。何かが足りないから付け足すと いうような療法ではない」という主旨の主張を しているんです。

そういうポジシヨンで高らかにカイロを謳いあげているのを読むと、やはり大学教育にしなければダメだと思います。
柔整も鍼灸も療術も含めて自然療法とし、4年制の大学にするわけです、そこで専門課程を決めさせ、そして6年で卒業にするわけです。
これまでカイロプラクターを育てたD.C.は、後進の者も合めてなんとかしなければいけないという気持ちがあるだろうし、D.C.という立場を背負ってきた人たちは、自分たちだけで何とかしなければいけないと思うだろうし、その違いでしようね。だから、誰屯責めることはできません。

ある政治家からの情報で、現在の運動が、厚生省の中でどこまで話が進んでいるということろまでは分かっているんです。ここで動かなければいけないという時期がきたらやらなければいけませんね。 現時点では、「足は引っ張らないから、どちらに進むにしてもやったらいい」とか、「前に進む話をしなければダメだ」ということは言うけれど、状況は厳しいですね。

 

鍼灸師・柔道整復師としての立場

本誌
先生のI台療院では療術と鍼灸·整骨という形でやられているんですか。

仲野
整骨は看板は出していますが、近所の方のつきゆびや捻挫ぐらいで、それ以外は診ません。あとは自由診療のみです。鍼は半分ぐらいの方に使ってますね。

本誌
やはり療術の治療が中心ですか。

仲野
光線も使うし、カイロはもちろん行います。私の方法はオステオパシーに近いんですが・・・·。あとは、刺激療法、電気も使いますし、温熱療法も使います。面白い温め方をしますよ。

本誌
治療の方針は何ですか。

仲野
私の座右の銘は「医者より養生」、「薬より手当て」というものです。これをー日何十回屯患者さんに言っているんです。 早い話が、我々のところに訪ねる前に自分自身の養生が大事だということです。医学の原点はそれだと思います。検査をして薬を飲むことが病気を治すことだと、みんな思っているわけですが、それは違うということを叩きこむことが大事です。

「子供は明日学校に行かなければいけないので治療にこられない」という親が多いんです。「学校と体とどちらが大事ですか」と私か言うと、10年くらい前までは、大半の親は「学校に行か せます」と言っていたんです。しかし、父が治療していたころは、「そうですね体が大事ですね」という親はまだたくさんいましたよ。ここのところまた少しそういう親も増えてきました。やはり時代でしようね。

医療の原点というのは本人が自分の体の異変について気付くことなんです。ここから帰るときまでには必ず楽にしますが、それだけではダメなんです。本人がどう生活するべきかというところまで話をすることが大事なんです。

鈴木D.C.

本誌
ところで、先生は鍼灸師会・柔整復師会でも理事としてのお立場につかれてますね。

仲野
そちらでいろいろと意見を求められますが、やはりよく聞かれるのがカイロのことですね そこで私は、カイロは(柔整と異なり)保険請求なしでやっていて、時間も短く、効果を挙げて患者が満足しているわけだから、かなり効果のある治療法だということを認めないといけない、と言うんです。

しかし、昨日まで八百屋をやっていた人が看板を出して治療している・・・·というようなことが たまらないというのであれば、それはやはり法 制度の整備をしなくてはいけないということなんです。

東洋医学という分野が、どんどん医者に吸収されていって、自分たちのアイデンテイテイを 無くしつつあるよ、とも言うんです。鍼灸では未病医学というけれど、医者がいつのまにか予防医学とか未病医学ということを言っている。ただ現時点では「慢性疾患だから、運動療法と食事療法を処方しましよう」という開業医はいないから、なんとか我々は勝てると言うんで す。

しかし、その大事な部分を横において、カイロのことをいろいろ言っている場合じやないと思うんですね。自分たちも急がなくちやいけない。

本誌
カイロをやみくもに敵視するのではなくて、ですね。

仲野
運動をするんだったら、フィロソフィーをしっかり持って、医師に対してまっこうから「本来の医療はどうなのか」という話会いをしていった方がいいと思うんです。我々のような自然療法家が育ってくれば、医師にとってもプラスになることだろうし。要は国民が健康で、病気にならないような医療のシヌテムを作らないといけないでしようね。

厚生省は、薬品メーカー。医師などのブロに向き合っているポジシヨンですから、我々は、厚生省も国民に向き合ってもらうような運動をしなければならない。そうすれば、おのずから「カイロという素晴らしものがあって、それを勉強したいという人がいるんだから大学を作るべきだ」という話になると思います。

 

薬なしの医学=手技療法

 

本誌
本誌の読者に対して、冶療に際しての心がけについての助言をお願いします。

仲野
患者さんの言葉をうのみにしないということですね。たとえば最初に行った病院の所見を教えてもらったとしても、同じ腰痛でもステージが違うこともあるし、症状も変化しているか もしれないから、やはりよく現在の症状を聞かなければいけない。病理学を勉強してないと、どれぐらい症状が変わるかということが分からないみたいですね。そういうことがよくあります。

それから、自分の治療は絶対だと思っている人が多いようですが、それは間違いです。私の治療だって未完成ですよ。私は立てない人を立たせて帰すこともたくさんあるし、患者さんはすごいすごいと言っているけれども、そのことより、その患者さんたちの生き方を変えることが重要なんです。

腰がおかしいときや、頭痛がするとき、あるいは他の痛みがあるときに、手術や注射をするのではなく、「この先生に相談しなきゃいけない」と思うところまで感じ取らせて帰らせることが重要なんです。

ところがみんな治療がー発屋みたいになってるんですね。みんな、いいものは持っているんだけど、そのあたりが寂しいですね。

仲野弥和

本誌
先生は医師の先生方とも密接な交流があるそうですね。

仲野
私は三重大学に行って医学博士号をいただきましたが、7年間かかりました。 知人から「(D.C.は)アメリカではドクターと呼ばれていても、日本ではドクターではないじやないか」ということを言われたことがあって、ああそうかと思い、たまたま私と親しい人が三重大学の研究室にいたものだから、その人のツテで入ったら、そこの教授の奥さんが私が昔治療して治したことのある方だったんですね。そんなこともあって、3年ぐらいその方に教わって、その後についた教授にもご理解いただいて、7年間いい勉強になりましたよ。

本誌
アメリカでのD.Cの学位が認められたということでしょうか。

仲野
農大を出てたことと、アメリカの大学の授業時間数を全部足すと、「医学部に遜色ないだろう」ということになり、教授会もスッと通ったんです。

それから、7年間通う間にいろんな先生との出会いがあるんです。三重大学には京都大学出身の教授が多かったんですが、そういう方でも、話してみると、薬だけで治している自分たちにすごい不安を持っているんです。名医は昔から自分の家族には薬を使わないといいますが、そういう部分を彼らは持っている。しかし、臨床では薬を使わざるをえない、というジレンマがあるわけです。 おそらく文明のない南の島かなにか、道具も薬もないところに漂着したら、医師の方々ではなく、私の方が酋長の横に座るこになるな (笑)。文字通り手当てを知っていそわけですか ら。

本誌
まさに、手技療法は薬なしの医学であるというわけですね。本日はお忙しい中、お時間を割いていただきありがとうございました。

 

 

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