仲野整体本院四日市

硫黄島での体験

邂逅―-そのとき鍼灸にみせられて
〜将来の道を決めた硫黄島での体験〜

臨床家の家庭に育てられて

私は戦後間もなく3人兄弟の未っ子として三重県四日市市で生まれ、コンビナートで栄える躍動感溢れた街で幼少のころを過ごしました。昭和26年の8月の終わりのころと記憶していますが、四日市市を貫く大通りの突き当たりにあった戦争で焼き出された住まいから、現在の場所に新築した治療室に移動するとき、自分の背丈よりも高い経穴人形を運んだことが誠灸と関わった最初かも知れません。

小学校では毎年始業式後に行われる視力検査があり、4年生のときには0.4から0.5という視力でした。保健婦の先生に渡された検査結果を持って自宅に戻りますと、父から視力回復のために視力運動を指導され、両側の太陽穴に誠を刺入したまま遊んでいたことを憶えております。お陰で今も裸眼で両眼とも1.5です。

治療室は早朝から順番待ちの患者がたくさん並ばれて忙しくしていました。父の治療は私が帰る午後2時までの受付で3時には治療が終っていましたから、家に帰るとすぐに父とスタッフ(当時は2?3人の住み込みの先生方がいました)に連れられて、夏はヨットに乗ったりして海を楽しませてくれました。

そのころ5歳年上の姉は花田学園に進学しており、最初は花田博先生宅に下宿していましたが、2年目には東京根岸の中村四郎先生(前日誠会会長中村万喜男先生の父上)のところへ移りました。姉はそこでも下宿してお世話になっていましたが、同時に私自身もいろいろな場面でご指導を頂くことになりました。

参議員選挙に出馬した花田博先生が、全国遊説の途中に私の自宅前で演説をされた時のこともよく憶えています。その頃、花田学園の学生であった安藤譲一先生がよく遊びに来られていて、イガグリ頭で真黒に日焼けしたランニングシャツ姿の私の話を今もされることがあります。

このように知らず知らずのうちに父を来訪された方々や、見学に来ていました多くの人々と顔見知りになり、特に愛知県の井垣博夫先生や所先生をはじめ、三重県の多くの先生方とも幼い頃から顔なじみになっていたのであります。

好きな造園家を目指して上京する

姉と兄の二人は家業を継ぐべく進学していましたので、私は自分自身の好きなことが自由にできました。当時造園学に興味があり、特に日本庭園を作庭することを夢に描いて東京農業大学造園学科に進学しました。

大学1年のときにワンダーフォーゲル事件でクラスの仲間が亡くなり、その事件を引き金に学内紛争が激化しました。そこでは、ボーイスカウトで養った愛国心と正義感が学生運動に走らせ、全力投球で全学の寮長(を務め、)あるいは農友会クラブの活動を調歌するなど、大学時代を十二分に楽しみました。

人間の体が作れない以上、一つの治療法考え方にこだわらない。

1966年 農友会華道部クラブ活動

そういう大学生活を送るかたわらで、今でいう学生起業家として造園業務の実践を始め、在学中の起業時には10人程度を雇う造園会社で公団や多くの仕事を手掛けており、仕事にも熱中していたのです。

大学の卒業式に初めて顔を出した父は、当時の学長であった内藤敬先生が私に親しく声をかけられている姿を見て、自分の息子の学生時代の生活を垣間見たようでした。父は学生生活の様子を思って安心したのか、または想像していた様子とは違ったのか、いろいろ尋ねるわけでもなく満悦な様子でした。

その数日後、今まで一度も頼みごとをしたことがない父が、義兄を伴って「家業の誠灸と整骨の仕事をしてくれないか」と相談を持ちかけてきました。どうも兄夫婦との関係がうまくいっていなかったらしく、「とにかく入学試験だけでも受けてくれないかと」言われ、仕方なく承諾しました。

もちろん学校は姉も兄も卒業した花田学園です。承諾したその日に学校は話がついていたらしく、3月の終り頃に入学試験を受けて学校に行くことになったのです。

しかし部下がいる造園会社を簡単にやめられる訳がありません。誠灸学校は、入学当初から7月頃まで休みがちで、時々顔を出すだけの学生生活を送っていました。

映画「硫黄島からの手紙」を見て

ご覧になった方もあろうかと思いますが、映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)のシーンを見て、造園家として最後の仕事を思い出しました。タイトルが映し出され、流れる字幕の背景に写る播鉢山の戦没者の慰霊碑を食入るように見ました。この慰霊碑こそ38年前に私自身の手で建立したもので昨日の出来事のように思い出しました。

実は昭和44年7月に日本に返還された小笠原諸島で、戦後始めて民間人として本土から来た遺骨収集団の皆様のお手伝いをすることになったのです。そこで23歳という若輩ながら、現地では慰霊碑を組み立てる現場監督を任され、このときの体験が、臨床家への道を決定することになりました。

硫黄島は本土決戦を遅らせる時間稼ぎの防波堤となった戦場です。慰霊碑を組み立てる作業が速く終わったことのより、時間の出来た我々は、負傷兵として本土に戻った数少ない人々が遺骨収集団の任務にあたりましたが、作業は島の頂きである措鉢山と岬を結ぶ地点から、埋められた当時の壕の入り口を割り出すことから始まりました。

終戦からすでに23年が経っていましたが、壕の入り口は火炎放射器で焼かれた跡が残り、奥へ進めば散乱する遺骨、名入りの汚れたヘルメット、飯盒、錆びた銃、弾薬、髑髏と生々しい戦争の傷跡が目の前に広がり、足がすくむ思いでした。

慰霊碑

硫黄島慰霊碑竣工式

戦争そのものの凄さを体験した元負傷兵は、当時の凄まじい戦場を思い出されたのか、号泣しながらこの壕で亡くなった戦友に語りかける姿は、いま思い出しても言葉が出ません。

壕の外は灼熱の太陽が降り注いでいましたが、壕の中の作業現場は寒気がするほどの静けさと、霊気が背筋を凍りつかすそんな状態でした。壕の中で亡くなった日本兵は当時の私とおおむね同世代の人々ですが、大学生活を調歌した自分とのギャップと、家業を継ぐように頼まれている自分を見つめ直す機会になったのです。

我々の仮宿はアメリカの海兵隊のカマボコ兵舎でした。一日の作業を終えるとくたくたになりましたが、夕食を終えてホッとしたころ、仮宿から出てヤシの木の下に広がる芝生に寝ころびました。打ち寄せる波の音が心を洗い、満天の星空にひときわ輝く南十字星が眼に飛び込んできました。

星空を仰ぎながら、日本を守るために防衛の礎となった人々と、あまりにも幸せな日々を送っていた自分自身を比べますと、涙があふれて止まらなくなりました。

幸せな時間と環境を与えられているありがたさに心から感謝し、涙をぬぐって英霊の御霊に手を合わせました。

臨床家への道を進めば父を助けることができるかと思い悩む日が続き、ずいぶん迷いましたが、祖国に残した肉親や友人のために命をかけて戦った英霊が、迷いを打ち消してくれたようです。

硫黄島での体験が将来の道を180度変更し、父と英霊のために臨床家として全力を尽くして生きようと決心させてくれました。

花田学園で学ぶ

花田学園では誠灸科と柔道整復科に籍をおき、東洋医学研究所で研修する合間に千葉県の藤川整形外へ実習に通う日々を過ごしました。

学校では現在の(社)全日本誠灸学会東京地方会会長を務める山田勝弘先生や、今は亡き岩穴口真人先生と「治す」ことについてよく議論し、夜を徹して楽しく語ったものでした。特に誠灸学(東洋医学)と、手技であるカイロプラクティックやオステオパシーとの関係について学びました。

この頃の同期生が(社)全日本誠灸学会千葉地方会会長の金井正博先生と赤坂島田整骨院の島田喜美夫先生で、私より少し若いこともあり、いつもよく尽くしてくれ、よき遊び友達でもありました。

 

学びの友

1971年 父仲野弥太郎カナダのオステオパシーDr.最多夫婦と共に

 

また、昼夜の合間をぬって現在の早稲田誠灸門学校の前身であった、東京カイロプラクティック学院に一年間籍をおきましたが、この学院の受付が創立者である山田新一先生のご令嬢である山田真理先生でした。

私が卒業したあとにこの東京都公認の東京カイロプラクティック学院を廃止し、誠灸学校を設立されたそうです。

その後、父上のご意思を継いで日本国内で可能な限りの自然療法を目指して努力され、大学を設立されたことは皆様もご存じのとおりです。

そして、花田学園ですごした中で忘れてはならないのが、医道の日本社の現代表取締役会長である戸部雄一郎氏が同期生だったことです。

学校は渋谷駅の近くにありましたので、戸部氏とは21時までの授業をよく早退し、駅のガード下にあった焼島鳥屋でご馳走になりました。

その当時、医道の日本社が開催していた「現代誠灸ゼミナール」でスライド係や受付係としてお手伝いをしながら勉強させていただいたことにより、名人といわれる多くの先生方の手技を拝見でき、また、じかに接する機会に恵まれたことは臨床家としてかけがえのない財産になりました。

明確な師弟関係というものがなかったせいか、多くの臨床家に可愛がっていただきました(私だけがそう思っているかも知れませんが・・・)。多くのセミナーや会議のあとの時間は、普段の臨床中には見られない人間としての臨床家の姿に接することができたと思っていますが、これらの経験は、のちのち業界に身をおくための判断力を養う一番大切なときであったかも知れません。

 

学べるものはすべて学びたいという気持ちから

花田学園の柔道整復科での2年間を終えて触灸本科に通いながら、昼は古賀オステオパシー研究所(当時、父が名古屋で中部オステオパシーアカデミーとして研究会を組織しており、その研究会の常任講師であった古賀正秀先生の施術所・・・東京)で翻訳の手伝いや古賀先生の手伝いをさせていただき、ときにはごちそうになることもありました。

古賀先生は私が最初に出会った手技療法の治療家で、その後も現在の治療体系に大きな影響を受けました。当時、名古屋で行われていたこの研究会には、東海地区の多くの試灸師が勉強されており、その中には勝野由睦先生(前良導絡医学会会長)、熊崎勝馬先生(現愛知県誠灸師会会長)、宝田一男先生(愛知県誠灸マ師会会長)らが在籍されていて、ここでも諸先輩の先生方にずいぶんご指導をいただきました。

また、恩師である花田博先生にお伴して早朝の明治神宮へ参拝にでかけたり、校舎最上階の部屋でときどきごちそうにありつけたり、桜井サチ子女史(現花田学園理事長・桜井康司先生のご夫人)とは年齢も近いこともあり、よくご指導いただいたことなど、学生生活の楽しい思い出です。今でも恩師の強烈な個性と信念にあやかりたいと思います。

このように過した学生時代に、多くの著名な先生方の生の臨床未を拝見することができたにもかかわらず、誠灸の難しさを骨身に感じていた私は、比較的理解しやすいオステオパシーやカイロプラクティックが大変魅力的と思い、いつしかその本場である米国への留学を希望するようになっていました。

 

米国カイロプラクティック大学に入学して

めざす大学の卒業生である清藤清次先生に情報は聞いていましたが、まったく海外が初めての私は身重の家内を日本に残し、昭和48年(1973年)9月1日に渡米しました。

アメリカに着いて4日目に米国カイロプラクティック大学に入学し、しばらくホテルで暮らしながら大学に通っていました。ちょうどそのころ松本徳太郎先生(現在の全国療術師協会会長)が同じ大学を卒業され、日本に戻るということでしたから、先生が住んでいたアパートの部屋(2LDK)にそのまま住むことができ、本格的なアメリカ生活が始まりました。

アメリカ生活に慣れたころ、アパートのオーナーであるジェフリーさん一家の手入れの仕方を見ていましたら、普通の日本のそれとはまったく異なったものでした。ガスレンジ、水洗周りや浴室のリニューアル、ブラインドの取替え、ストーブの手入れ、ドレープの取り替えまで、すべて夫婦で済ませる勤勉なォーナーの手入れ方法を見て、アメリカ人の真面目な家庭では、アパートを持つことが利殖のための方法であることを学びました。

このこととともに、アパートには同じ大学のクラスメート、老夫婦、アメリカインディアンの夫婦、そのほかにもいろいろな家族が住んでいて、その人たちとの交流で多民族国家アメリカを垣間見ることができたことは、その後多くのアメリカ人の生活と考え方を知る上でたいへん役に立ち、また、自分自身の考え方や異国生活の参考になりました。

当時の為替レートは1ドル360円の時代でしたから、生活費の工面はたいへんでした。授業料は一学期800ドルと高く、それに教科書なども高かったので、生活は質素を極めていました。節約のために様々な工夫をし、週末はダウンタウンの日本食マーケットや、住んでいたグレンデールのスーパーに出かけて主に日本の食料品を少しだけ買うというものでした。

語学という問題点をかかえたまま9月5日から始まった授業(講義)は、午前9時から12時と午後1時から4時でした。主軸である解剖学に時間の大半があてられていたので少しは助かりましたが、休日である週末の土曜、日曜も辞書とにらめっこすることが続きました。

解剖学の時間は半日が解剖実習で、解剖は非常に細かい作業でした。そこでは、今まで日本で治療を学びながら気になっていた疑問点や、個体差などに注意しながら献体に鍼を刺入して確かめたもので、一遺体に対して4人で進めた解剖実習は今も力になっています。

また、特筆すべき名教授の講義もいくつかありましたが、Dr.アンダーソンの脊椎神経学の講義は、模式図をひたすら黒板に書くものでしたが、見事というほかはありません。それは参考書よりも詳しいのではと思うほど理解しやすいもので、オーバーヘッドプロジェクターで講義を進める今とはまったくちがい、書いて理解することの大切さを身にしみて感じたものでした。

当時の講義はテクニックを学ぶ時間が多くありましたが、もっとも興味があった専門教科はレントゲン学、整形外科学、婦人科学の実習、EENT学、鑑別診断学などで、どれも素晴らしい授業でした。

LA生活

その名教授アンダーソン先生も、私が卒業したあとパサデナにできたカイロプラクティックカレッジに移動されました。このように米国カイロプラクティック大学で学んだ4758時間という講義は、自然科学の基礎を終えてから学ぶ時間としては日本の6年制大学に近いものです。渡米中は、日本で学んだ誠灸と柔道整復専門学校での疑問点の謎解きをしているような時間を過ごしましたが、教育というものの大切さは今もこれからも忘れることはないでしょう。

 

カリフォルニア州の認定誠医となって

留学3年目にカリフォルニア州の誠師の制度ができましたので、申請し試験で許可されました。州のなかでは244番目で、そのうち日本人としては15、6番目だったと記憶しています。認可(許可)されたのち、少し時間のできた週末に自宅で患者を診るようになりました。

鍼開業免許

1976年 米国カルフォルニア州アキュパンクチャー
(はり)開業免許AC244号取得

その後、サクラメントに住んでいるDr.テッド林田よりご紹介をいただき、試験委員[CaliforniaSteate Borde Member)にもなりDr.テッド林田は、日本人の鍼師少ないことを心配して、日本人鍼師が増えることに努力をされていました。

このように、週末は級友や知人を通じて患者が訪れるようになり、治療する機会が増えましたので、日本からの仕送りだけだった生活も少しずっ潤ってきました。

また、日本から多くの友人たちのグループがディズニーランドを訪れて、そのとき乗り物に乗れずに余ったチケットをたくさん渡してくれましたので、米国の友人家族とともにしばしばディズニーランドを訪れたり、日本人にロスアンゼルスの街を紹介することもしばしばありました。

この街は交通の便や環境がよく、私に関係する鍼灸師や役人、旧友や他の大学に留学している人々が立ち寄りやすい場所でしたから、多くのD.C.(カイロプラクター)とお会いすることができました。

卒業が近づいてきますと、インターンとしての臨床の授業が進むたびに週末の診察やセミナーも増えました。そこで多くのカイロプラクティック・ドクターとの出会う機会に恵まれ、Dr.ガンステッド、Dr.トムプソン、Dr.バンラムプ、Dr.ディジャーネット、Dr.グッドハート、Dr.パーカーら、多くの著名な先生方の講義を受けることができましたが、なぜか自分の中で消化できないものもありました。

基本的な解剖生理学に基づいて分析・診断する鑑別診断学は、それまで日本で学んだ手技の世界(整体法、操体法、身体均整法など)と比べて明らかに質の違うもので、人間を構造学的にとらえて分析し、検査し、治療するそれぞれの方法から、その後の臨床に大きな影響を受けました。

教育レベルを上げれば、それなりに治療法の進化も十分に考えられると確信しましたが、このことは一定の教育レベルを保ち、向上心のある人に教育したいと思う今の考えの基になるものです。

 

卒業から帰国へ

1975年に鍼の世界大会がラスベガスで開催されました。大会期間が終って帰路につく前に、多くの鍼灸師がロスアンゼルスに立ち寄られたときに、家内が作ったおむすびを差し入れしたときは、飛ぶようになくなり、皆さんからたいへん感謝されたこともありました。このような楽しい生活もあっという間に過ぎ、米国カイロプラクティック大学を昭和52年(1977年)7月22日に無事卒業することができ、卒業後の1ヶ月間は、家族4人(家内、4威の長男、3ヶ月の次男)で米国一周の旅に出かけました。

大学卒業

パーマー大学に留学されていた中島文保先生や脇山得行先生らとともに、ナショナル大学留学中の佐藤健造先生のご家族や、山田徳博先生のご家族にも出会いました。ニューヨークに出向いてカイロプラクティック大学の見学や、そのときすでに治療家として滞在していた鍼灸師である石丸田鶴女史を尋ね、のんびりとした時間を過ごしたこともありました。また、ニューメキシコにオフィスを構えていた加瀬建造先生宅を訪ね、1週間ほどゆっくり自宅に泊まらせていただいたことなど、今思うと楽しい思い出ばかりです。

大学卒業

大学卒業

帰国が近づいたころには、日本に戻ってから勉強するための書物も手に入れ、増えた家財道具と治療台(マクマニステーブル3台、逆さ吊り治療器1台)を船便で送るなどあわただしくなりましたが、9月に無事帰国しました。

今でもそうですが、当時の日本では週6日間仕事をして1日休む生活が当たり前でした。アメリカで週5日間仕事をして2日休むという生活に慣れてしまったものですから、帰国してしばらくは、たった1日の休みの差が長い1週間に感じられ、今でも「疲れる国だ」と感じたことを思い出します。

大学卒業

 

日本人のための総合治療の臨床家として

日本に戻ってからは臨床家として毎日多忙を極めていましたので、「なぜ日本はこんなに忙しいのだろう」と思うことが多く、生活習慣の違いや週末の過ごし方に日米の差を感じることがとても多かったことを憶えています。

そんな日米の差を感じながらも、約3年間は比較的アメリカ的な生活をして、家族と過ごす時間を多くとりました。

臨床家は治療に全てをかけなければなりません。帰国してから、地元で開業医とともに毎週金曜日に研修会(金曜会と呼んでいました)を開催しました。

金曜会のメンバーは、山下剛先生(山下外科神経科院長)や小田慶一先生(東洋クリニック院長)、さらに、三重県誠灸師会の木下伸一先生、天野治先生、丸山源司先生をはじめ、近隣の開業鍼灸師とゲストの医師の参加で、包み隠さない生きた勉強と遊びができた楽しい時間でした。

その研修会では永年にわたって臨床の問題点やそれぞれの治療法、また、手術法やその予後の対処法、QOLなどについて寝る間も惜しんで毎回深夜まで研鎖し、さまざまな相談をしながら、お互いに患者を紹介しあいました。

また、それぞれの臨床現場を理解しあいながら、協力病院や提携病院との連携が大切なことや、日本の開業医の実際を知ることができました。

また、山下先生は患者や異業種とのコミュニティづくりのために火曜会(のちに山下熟に改称)を主宰し、患者の生の声を聞きながらユニークな方法の交流を心がけられ、晩年は終末期医療を実践されました。社会との関わりを持つことの大切さから、このようなシステムを構築できたことは、患者にとって素晴らしいものだと思っています。

 

 

日本の誠灸の将来を考えて新誠会の仲間とともに

帰国後、学会などで旧知の仲間との再会がありました。留学中にときどき尋ねてくれた戸部雄一郎氏や、小川晴通先生のご子息である小川卓良先生も、始めて会った時から、なぜか10年来の友人に会った気がしました。また、後藤修司先生と会ったときも全く同じ思いをしましたが、これは、それぞれおかれていた環境が似ていたからかも知れません。

「新鍼会」(新しい鍼灸を考える会)とは鍼灸師がその職分においてより多く社会に貢献するために、又貢献できるようにするためには何をなすべきか。こういった考えに立って20名の有志で1982年に発足したのが新鍼会である。

こうした新鍼会の仲間との出会いも忘れられないものがあります。

戸部氏や小川氏の声かけで、日本中から30代前半の若い鍼灸師が京都に集いました。中村辰三、谷口和久、竹之内三志、鈴木由紀子、岡田明三の各先生たちにはそのときに出会ったのです。その仲間とは認定鍼灸師の問題、医療機関おける誠灸治療、療術に関する問題などを話題に勉強会を重ねたのち、(過去にない視点から)アンケート調査を行いました。

また、新鍼会の仲間とともに、厚生大臣(当時)であった斎藤藤十朗先生(三重県選出で後の参議院議長)の大臣室に伺い、いろいろな質問をさせていただき、また、無理難題をお願いしたこともありました。

斎藤十朗先生大臣室にて

斎藤十朗先生大臣室にて

当時の厚生省担当者や審議官とともに、朝食会やトンカツ屋での夕食会を行い、後に内閣総理大臣を務めた故・橋本竜太郎先生とも会食をしながら、業界の身分の確立や向上について相談したこともありました。これは、参議院議員の阿部正俊先生が厚生省審議官をされていたころの話です。

新鍼会で熱い議論を交し合った仲間たちは、今も学校協会や全日本鍼灸学会を始め、臨床家としても関係各組織のそれなりの立場にあり、リーダーとして活躍されていて、今も毎年年末に望年会を続けています。

いろいろな成果を示しながら、それぞれが人的資材としては大切な役目を果たしているのだと思います。今も私にとっては楽しい仲間であり財産です。

それぞれ志や思いは今も変わらないと思いますが、鍼灸医療の将来のために、もう一度叡智を絞って業界を考える時間を持たなければならないと思います。しかし今、一番泥臭い業界に身をおいているのは私だけなのかも知れません。

※新鍼会(新しい誠灸師を考える会)とは
[鍼灸師がその職分においてより多く社会に貢献するため、また貢献できるようにするためには何をなすべきか。こういった考えに立って、20名の有志で1982年に発足したのが、新鍼会(新しい鍼灸師を考える会)である。鍼灸業界が抱える諸問題を洗い出。座長は後藤修司氏(東洋療法学校協会すための調査活動や、積極的な提言などを行っていた前会長)が務めていた。]

新鍼会

 

 

三重大学医学部公衆衛生学教室で学位(医学博士)を取得

たまたま街角で出会った高校時代の先輩である北畠正義先生(四日市大学教授)が、私の経歴と仕事を知って三重大学公衆衛生教室での研究を勧められ、吉田克己教授にお会いしました。

吉田教授は公害研究の第一人者であり、四日市公害の解決策を見つけ出したことで有名な方で、北畠先生はその研究を基礎から支えていたお一人でした。

お二人の先生の人間性に惹かれて、その後7年間研究室でお世話になることを決心し、木曜日の午後が休診でしたから、週一回大学に出かけて先生方と多くの交わりができたことも財産です。

公衆衛生学教室のとなりには法医学教室があり、そこでは怪奇な遺体を解剖して分析をしておりましたし、又、もう一方のとなりの衛生学教室では、月下美人の花を愛でながら呑んだコップ酒の味は忘れません。

夢中になって「大気汚染と端息」をテーマに研究しましたが、学位論文を整理して書き上げるには、ドイツ語の翻訳や英文への翻訳が必要です。そのときに、いやというほど辞書を見たことなどは楽しい思い出です。

医学博士

1990年医学博士(三重大学医学部)乙第452号学位授与式

大学の研究室でのエピソードは別稿としますが、思い起こせば楽しくたいへん充実した研究室時代でした。また、このときは教育というものと、深い研究の大切さが身に染みたときでし学位授与式を終えて飲んだ酒の旨さは格別でした。また当時、病床にあった父が祝儀袋にしたためた「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉と、刈りたての一握りの稲穂を贈ってくれたことは決して忘れることはないでしょう。今も戸棚の中に大切に飾ってあり、見るたびに当時を思い出します。

当時はJC(青年会議所)での活動と、現在も在籍する四日市ロータリークラブに入会したころで、三重大学で学位をいただいたのはそんな忙しい時代のよい思い出です。

 

(社)三重県誠灸師会会長に選ばれて

父は法人化される前の三重県誠灸師会の会長を10年ほど務めていましたが、いよいよ社団法人設立という時期にさしかかり、準備に追われました。その準備を手伝うために、昭和55年の春から一週間のうち3日ほど昼休みに県庁に出かけ、法人化のためのすべての業務の手助けをしました。

それからずいぶん月日が流れ、平成14年3月下旬の理事会で「会長を受けていただきたい」との要請がありましたが、お断りしました。26年前に、社団法人として設立するときにはたいへん苦労したこともあったことと、当時(社)三重県柔道整復師会の常務理事を務めていたこともあり、快諾することはできずにずいぶん考えました。

理事会

三重県鍼灸師会館

もともと鍼灸師である父に頼まれて進んだ鍼灸界でありますから、法人化を進めたときの熱い思いもあり、昨日のことのように思い出します。

お断りしたあと、何度も鍼灸師の仲間から「会長を受けて下さい」と懇願されましたが、まだ「受ける」という返事ができなかったのですが、今年4月30日に急逝された故・木下伸一副会長や、今も私を助けていただいている原昌子副会長、一見隆彦常務理事、他の熱心な仲間から懇願され、お受けすることになりました。

辛いなことに、父の次に会長をされた新谷実光生が急逝され、その後を受けて会長になられた松久正美先生や、次の福岡保延先生へと順調に会務が運営されており、その体制の中で、私は(企画)普及部長、学術部長、専門領域研修委員長、総務部長を努めていましたから、比較的流れに乗りやすかったことはありがたいことでした。

会長に選ばれて現在の体勢で6年目を迎えておりますが、17年7月には、全会員が待ち望んでいた三重県鍼灸会館を県庁所在地の津市に建設し、無事に唆工することができました。

これも今はなき多くの先輩の思いと、保険部長を長く務めていただいている天野治先生や、多くの仲間が力を結集したことで竣工にこぎっけることができたわけです。おかげで学術研修会や保険業務を推進する上でも、たいへん重要な拠点作りになりました。鍼灸学校が日本中に設立されるなか、地元の三重県にも鈴鹿医療科学大学鍼灸学科と、私が校長を務めるユマニテク東洋医療専門学校ができました。この教育機関ができたことにより、鍼灸臨床家が十二分に活躍できる土壌は準備が整いましたから、現在の会員はさらに技術を磨き、また、両校から質の良い臨床家を輩出すれば、県民にとっても我々鍼灸師にとっても必ずよい結果になると確信しています。

(社)三重県鍼灸師会は、公益法人として鍼灸を普及させる責任はますます重要になってきています。会員全員の資質の向上のために、生涯教育としての教育内容をさらに充実させ、安全、安心医療を行う臨床家として、会員全員が安定した生活基盤を確立できるように、最善の方法を模索しながら事業を進めているところです。

三重県鍼灸師会

 

(社)日本鍼灸師会の常任理事として医療鍼灸推進研究会を推し進める

今、(社)日本鍼灸師会の常任理事(広報局長)として5年目を迎えていますが、全国各地の誠灸師会から多くの情報をいただき、その現状を知るにつれて遅々として進まない業団の問題点がわかってきました。

日本鍼灸師会も全国の各鍼灸師会も、いつまでも役員に手弁当で仕事をさせていてはいけないと思います。しかし闇雲に会員数を増やすのではなく、志を持った団体へと組織することが大切であます。そうすれば、多くの鍼灸師は業団の一員となるべく会員登録を行うでしょう。

また、質の確保(研修制度による認定など)と、独自の届け出制度(免許の登録制度)などを確立することによって、臨床レベルの向上とその維持を軸に国へ要請(療養費の支払いの簡素化)することが急務です。

業団が法制化への働きかけを行うとともに、質を確保した鍼灸師の思いと、治療を求めている患者を結びつけられれば、おのずと国民のための鍼灸医療体系ができ上がります。

現在の日本は、感染症対策に偏った医療制度から抜け出せないでいる医療体系です。その体系を追随するのではなく、先人の方々が日本の風土と歴史の中で作り上げた良質の医療体系を築かなければなりません。

鍼灸師は国民にとって優しくて、安くて、安全な医療の担い手でなければならないのは当然です。鍼灸にプラスアルファをし、自然医療全体を力にして世論(現在の代替・補完医療を求める動や統合医療)を作り出し、トータルな鍼灸師であるのはもちろんのこと、より高い価値観を持った人づくりを目指したいと思います。

鍼灸師、柔道整復師、カイロプラクターなどそれぞれが素晴らしいものを持ち合わせているわけです。それらを融合させて6年生の大学にし、基礎教育を充実させるとともに、人間力のある臨床家を育てなければいけないと思います。

治す方法は多種多様ありますが、治療家を選ぶのは患者であり、治療法を考えるのは臨床家です。双方が納得して治療方針を立てて進めばよい結果がでるはずです。

まだまだ書きつくせない思い出がたくさんあります。特に鍼灸関係の友人との邂逅を機に蘇った初心を忘れないよう、また、還暦を迎えた齢を無駄にしないよう、これまで私を育ててくれた皆さんのために少しでもお役に立てるように務めたいと思います。

月間誌「医道の日本」2007年8月号に掲載された原稿の未掲載部分のものを加筆したものです

 

 

 

 

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